カンボジアにクメール茶室を・・・。


hashihime

1.この自然を、この宇宙をどう編集すればよいのだろうか

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(靈山不動)

茶は最初、栄西によっていわば薬として日本に伝えられました。栄西の茶は、やがて聖徳太子時代から根づいていた建築方法であるカネワリと融合し、茶道へと姿を変えていきます。動中の静。悟るための場としての茶室が、茶を日本の総合藝術の域まで高めていきました。しかし、なぜ茶だったのでしょうか。戦後の欧米化によって忘れ去られた日本文化。それを顧みようとしたとき、その分母をカンボジアに移して、一から考えてみるというのもひとつの手なのかもしれません。

 

2.身さえ美しければ、よし。

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(自然体、常に絶対美)

偏差値教育なんてものがはじまるはるか昔、日本の躾(しつけ)は文字通り、身さえ美しければよしというものでした。つまり、言の葉による教育をまったく信じておらず、実際、寺子屋も先生が居りながら、現代では学級崩壊だと批判されるような景色ばかりだったのです。それだけ身がおもむくままにという方針だったのかもしれませんね。そこに身の美しさを子どもたちに少しずつ重ねていってあげることが、先生の役割でした。和室という空間の比率を細かく考え、身を畳のどこに置き、所作を空間のどの領域で魅せるべきか。それらは凡て陰陽学をもとにしたカネワリによって計算され、所作の数値化が行われていったのです。

 

3.茶室自体が木火土金水であり、小宇宙を表す。

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(日が昇る方向からお客さまをおむかえする)

あるべきところに、あるべき所作を。今、世界では「おもてなし」という言葉とともに、日本所作に注目が集まっています。言の葉ではなく、身の動きでのもてなし。このような文化をつくってきたのは、まさに茶室といっても過言ではありません。逆に申しあげれば、カネワリで計算されたたしかな茶室抜きで、日本所作を輸出するのはどうしても文化的交流ではなく、その場限りのビジネスに堕してしまいがちなのです。このような視点から、文化的破壊という意味では日本よりも哀しい歴史を持つクメール文化に、あえてふるきよき日本文化の舞台を放ち、補助線を引くという活動は将来性があるかもしれません。

 

4.炉を切らぬクメール茶室。

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(無事是貴人)

暑いカンボジアの地では、日本の冬を暖めてきた炉を切る必要がありません。凡て風炉でお茶を点て、お釈迦様にそれを奉げるといったことが基礎となっていくのではないかとおもいます。現代のカンボジアは仏教国なのですから。クメール舞踊の手の動きを眺めていると、ふと柄杓(ひしゃく)を扱う日本所作とのあいだに、妙な相似律を感じることがあります。心優しきと云われ続けてきた日本人とクメール人。両者のあいだに似た伝統的所作、あるべき動きがあってもなんら可笑しくはないのです。

 

 

5.大学内に茶室をつくり、クメール茶道を編む。

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(働くも遊ぶも旅の姿かな)

現在、茶室はプノンペン郊外にあるJCIAポーサンチェイのカレッジ内で建築中です。小柄なクメール人には田舎間の寸法がよいだろうということで(畳自体がカンボジアの氣候に耐えられるかというところから心配なのですが(笑))、小ぶりな茶室が新年には生まれようとしています。畳の寸法が決まれば、茶室というのは自ずと高さも決まり、方角からあるべき位置というのも視えてまいります。千利休が視た美の舞台にはほど遠いものの、クメールという場の茶室が、どのような物語を動かしていくのか。ふと栄西の氣持ちがクメールの風にのって、ほのかに香っている感覚に陥ります。